京都の焼きいも屋の「意志」と「情熱」を受け継いで
野菜全版を扱うお店ですが、いつしか「さつまいも」のヤマサとして多くの取引先さんにかわいがってもらうようになりました。
旬の時期はもちろんのこと、少し旬の時期をはずれてもおいしい「さつまいも」を揃えていると、うわさを耳にしてお店さんがたずねてくれるようになりました。
ある時、わざわざ京都から大量に「なると金時」を仕入れに来られるお客さんがいてはりました。
京都で大繁盛している焼きいも屋のおやじさんでした。
「いつもは京都の卸売市場で仕入れてるけど、売れ過ぎて材料のさつまいもが足りんようになった」ということでした。
50キロ、100キロ、ある時は200キロ(本数にして500本)も仕入れていかれることもありました。
ところが、そのおやじさんがパッタリ来なくなってしまいました。家内と「あのおやじさんどうしたんやろう?」と心配しました。
ふた月ほどもお姿が見えないので気になって、ある日、お店のある京都まで夫婦で訪ねてみました。
「大将、どないしたんや?」
あれだけ繁盛していたお店の表は閉められ、おやじさんは奥の部屋でひっそりとしておられました。玄関先の私の声を聞くなり、
「あんたや、あんたや。あんたを待っとったんや!」
大きな声を出して部屋に招き入れてくれました。
話をうかがうと、病気で突然両目の視力を失い、焼きいも屋を続けることができなくなったとのこと。「繁盛していた店やから、いろんな人が後を継ぎたいと言うてくるけど、どれも焼きいもにはさほど興味がないのに、金儲けのことばかり話をしよる」と嘆きます。
「おいしい焼きいもの作り方を受け継いでくれる人がおったらええと思てたけど、どこにもおらん。もうあかんかな・・・」
とあきらめ、大切な窯も捨てようとしていた。
「あんたの声を聞いて思い出した・・・」あんたのことを忘れとったがな。
あんたには季節を問わず、その時その時のおいしいイモを提供してもらえて、ほんまに助かった。」
そして、おやじさんは
「さつまいもを知り尽くしたあんたにこそ、後を継いでほしい」。
「あんたのようなさつまいもの目利きにやってほしかったんや」。と、私に後継者になるよう熱心に口説きました。
おやじさんの情熱に動かされ、結局、そのやり方を引き継いで、八百屋の仕事と並行して大阪で焼きいも屋をやることになりました。
なにせ京都では当時、行列ができるほどの名物の焼きいも屋さんです。おやじさんの指導は厳しかったです。
目の不自由な身をおして大阪まで毎日指導にこられ、火加減、焼きぐあいから、お客さんへの頭の下げ方、接客態度まで叱咤の連続。よう怒られました。
そのおかげでうまい焼きいもがいつでもできるようになり、このナニワの地でも繁盛する焼きいも屋になりました。「冬場には、なくてはならないもの」とまでいってくれる常連さんもたくさんでき、喜んでもらってます。
さつまいもの品種によっては、焼き芋にした後冷蔵庫で冷やしてもおいしく食べられるものもあります。それなら夏場でも焼きいもを食べてもらえないかと・・・。
いろんなところに売り込みに行きました。
「そんな季節もん、夏の暑い時に店で売れるわけあらへん!」。
「焼きいもは秋に決まってるやんか」。
何軒ものお店に断られました。
そんな中、ただ一軒、奈良の大手のお店のバイヤーさんが、「そら、面白い!やってみましょう」と、なんと初めっから1,000パックの注文をくれはって、わずか3日間ほどでぜーんぶ見事に売りきってくれはった。
うれしかったですね。
そのお店、10年たった今でも宣伝もしないのに、夏も秋も1年中売れています。
おかげさんで、それをきっかけに夏でも食べてもらえる焼きいもとしてあちこちで評判になりました。
最近は、女性の方に「健康食」として注目され、「毎日食べられるスイーツ」としても喜んでもらってます。
「完」